空の高さに長い休みがあけたことを知り、街に日常が戻ってくると、宴(うたげ)の終わりをしみじみ感じます。
秋というにはまだ早い、かといって晩夏ともいえないこの季節は、台風の襲来期でもあるせいか、少し危ないにおいを漂わせて忍び寄ってきます。初秋などという優しい響きよりも、野分け(のわけ)時とでも呼んだ方が、実は雨が続くこの時期にはふさわしいかなと思います。いつのまにか自己主張を始めているススキの存在も、強く吹く風を目に見えるものにしてくれます。となると、残るは群雲(むらくも)に見え隠れする月でしょう。
月見れば千々にものこそかなしけれ、
わが身一つの秋にはあらねど
大江千里の歌をなぜか思い出します。月は年中見ているわけですし、千里の心境に共感している訳でもないのですが、誰しも抱えている程度の悩みでも、感傷的にさせる輝きなのです。
かれこれ二十年も昔になりますが、オーストラリアを旅していたとき、(彼の地で言えば長月に相当する三月に)キャンベラからメルボルンへ向かう夜行バスに乗ったことがあります。四十席ほどの車内は満席で、隣には‘Royal Air Force’と記されたブックレットを抱えた制服姿の男が座っていました。読書灯を点けて長い間書類の同じページをぼんやり眺めていました。‘Royal’という単語にこの国の本音と建前を垣間見ながら、僕は寝付けないでいました。そのうち、レストストップでバスが止まりました。「20分停車」という運転手のコールが聞こえたので、車外へと出ました。ドライブインの明かりが届かないところまでと、潅木の間の砂地を歩いて行きます。
満月でした。
月だけが照らし出す世界がこんなに明るいものだとは思いませんでした。ユーカリの巨木が点在する大平原を優しく浮かび上がらせています。もちろん「月光」という言葉は知ってはいましたが、それが如何なるものかを知ったのは初めてでした。 [next]