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    4月                            vol.10




  集 合







 「対応」について語ろうとすれば、射線を用いるのが便利なのだと前回お話ししまたが、その射線を用いた図に登場していた長円と数字やキャラは、それぞれが集合と要素を示しています。となると「集合と要素」について触れないわけにはいきません。そこで今回はこのテーマについて考えてみましょう。


 数学履修の初年級課程において、「集合」をカリキュラムに含むか否かはつねに問題になってきました。皆さんの中には学校で習ったという方と、学んでいないという方、それぞれいらっしゃることと思います。簡単に言えば「集合」とは「ものの集まり」のことですから、小さい子でも犬の集まりと猫の集まりの識別が付くように、とくに馴染みにくい概念ではありません。しかし具体的に把握し易いものだけに、それを抽象化・一般化しようとすると、教える側には技量が要求されます。ですから、教育現場での扱いが難しいものになってきたわけです。

 集合論の創始者として知られるゲオルグ・カントルによれば、集合は次のように定義されます。

   「 我々の直観あるいは思考の対象で、
    よく弁別できるものaをひとまとめにしたものAを集合といい、
    個々の対象をその集合の元( または要素 )という」

いかがでしょうか。当たり前に思えることほど定義するのが難しいと常々感じさせられますが(例えば、北という言葉を方角に関する用語を使わないで説明してみて下さい)、集合などはその最たる例と言えます。(図1)


figure1

 カントルの謂わんとすることは、
集合とは単に「ものの集まり」であるのではなく、
   1° そこに集まっているものの範囲が確定している。
   2° それらのもの(元、要素)が弁別できる。
ことが重要だということです。


 例えば、「 子犬の数を数えなさい。」 という問題に対して、これが解答可能となるには、
   1°子犬が他者(子犬以外のもの)と識別できる特性をもち、
     その属している地域やグループ(ある公園で遊んでいる…etc.)
     が特定できる。
   2°子犬1匹1匹が識別できる。(犬種、毛色等が異なっている。)
が満たされなければならないということです。

 子犬なのか成犬なのかはっきりしなければ、例えある家族が飼っている数匹の犬の中からでさえ、子犬だけを数えるのは難しいことになります。ですから、子犬とは「生後○ヶ月までの犬」を指すといった定義が必要になるのです。この場合重要なのは、その「○ヶ月までの」という内容の正当性ではないのです。むしろ、「○ヶ月までの」犬を子犬と呼ぶと決めておくことなのです。

 旅客運賃などをみても、鉄道各社は小学生までを子供として定義していますが、航空各社は12歳未満を子供(infant)と呼称しています。ですから、同じ小学6年生であっても、飛行機に乗る際の料金が違うということは現実に起こっているのです。空路は鉄路(欧州など一部地域を除いて)よりグローバルな移動手段です。世界各地で小学生の学齢は異なる訳ですから、どの国においても通用する料金設定の基準(1)にはなりません。一方、国内限り(domestic)でよい鉄道運賃は小学生までという基準にできるのです。

注(1)
もっとも、これについては持論があります。運賃格差を年齢差ではなく重量差にするべきだと思うのです。まあ、搭乗前に体重を量られるのは面倒で不愉快なことかもしれませんし、何だか貨物運賃のようだと言われそうですが…。


 形や大きさが酷似していても異なる種類の草木であると判断したり、色がまったく違っていても同じ種類の花であると看破できる能力、いわゆる「パターン認識」は未だ十分に説明のできない凄い能力です。手書きの郵便番号を機械が識別するのもこの「パターン認識」を利用しているのですが、漢字まじりの宛先の判読といった数字の読み取りを超えるレベルになると、まだまだ機械は人間の能力には遠くおよびません。

 「集まり」を「集まり」として括れるのは、そこに「パターン」の存在を認められるからこそなのですが、パターンを判定する根拠が希薄なままでは「集まり」なんて作りたいだけ作れることになってしまいます。

 例えば、{ 蛙,狐,鯨 }を2つの集まりに分けなさいと問われたらどうしますか。{ 蛙 }+{ 狐,鯨 }と分けますか。当然分けた理由が問われてくることになるのですが、この場合{ 両生類 }+{ 哺乳類 }に分別できることが根拠になるのでしょう。では{ 蛙,鯨 }+{ 狐 }はどうですか。ちょっと苦しいですが{ 水生動物 }+{ 陸生動物 }などというのも分ける理由として採用できそうです。

 一方、{ 蛙,狐 }+{ 鯨 }はどうでしょうか。きっと{ 小型動物 }+{ 大型動物 }なんだろうけれど、何を基準に小型・大型と分けるのか悩ましいなあ…と考えてしまいます。実は、STAR FOX(TVゲーム)に登場するキャラか否かが、そのように分けた理由だなんて言われた日には、思わず脱力してしまいそうです。

 さらに、{ 蛙,狐,鯨 }+{ }という分類ももちろんありなのです。この{ }は空集合と呼ばれるもので、その集合にはいかなる要素(元)も含まれていないことを意味します。要素をまったく含まなければ、それは「集まり」と言えないのではないかという指摘はもっともなのですが、この{ }を集合として認めることは、{ 蛙,狐,鯨 }を集合として認める上でも不可欠なのです。なぜなら、そのように集めた根拠を動物であることとすると、動物でないものが存在してはじめて「動物」は一つの「集まり」と認識できるからです。則ち、○○であるということが主張できるのは、○○でないものが存在するからに相違ないからです。(2)

注(2)
例えば、血液型という言葉がありますが、もし人類が皆同一種類の血液だったとしたら、そもそも血液型という概念すら存在しないでしょう。勝者は敗者あってのものですし、陽は陰と同時に生じます。


 最初から無いということと、今はないけれど、かつてはあったかもしれないし、これからあるのかもしれないことの差は決定的です。例えば、
  「横浜市民であるならば神奈川県民である」
という命題の真偽を考えるとき、ベン図(ベン・オイラーの図式)を用いて考えると、私たちはつい次図(図2)のようにイメージしてしまいます。


figure2


 しかし、遠い将来に横浜市の一部(或いは全部)が分離独立運動を起こして、神奈川県を離脱したいと考えるかもしれません。となると、イメージは変わり、


figure3


(図3)となります。その自由度を確保しておくには、


figure4


(図4)の色の付いた部分が、今はたまたま「空集合」になっているのだと解釈しておけばよいことになります。(3)

注(3)
要するに「横浜市民であってかつ神奈川県民でないものはいない」ということです。これは「横浜市民ならば神奈川県民である」という命題を真(正しい)とすることと同値です。


 横浜市の分離独立運動なんていうのは、この平和な日本にあって笑止千万な話だと思われてしまうかもしれません。しかし、行政の自主権レベルで言えば、県から委譲される部分がもっとあればよいと考えている市区町村は多いのではないでしょうか。国から地方自治体への許認可権移行となると、都道府県のすべてが多くを期待していると言い切ってもいいでしょう。地方自治を掛け声だけに終わらせないためには、つねに自分たちが縛られがちな「これはどうせ国の専管事項だから…」といった常識に目を光らせていることも肝要かと思います。

 私たちは、要素が集まって集合ができることを、あたかも自明なこととして考えてしまいますが、その出来上がった集合が今度は、そこに含まれる要素を限定することも忘れてはならないでしょう。「どうせ…だから」は安易に使われるべきフレーズではないと思います。その他の選択肢が必ず隠れていることを意識しておくべきです。





追記

 「集合」とは目の前にある諸々のものに共通する性質を見つけ、一つのまとまりとして捉えることのみを指すのではなく、その性質をもたないものの存在(これを補集合といいます)を認めることによってはじめて「集合」は意味をもつのだと思います。
 さらに、その出来上がった集合が逆にそこに含まれる要素を限定することも忘れてはならないでしょう。それはまさに『…である』( sein )から『…べきである』( sollen )への変態です。

 ボーヴォワールの言葉に『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』という有名なフレーズがあります。このようなジェンダー(4)の問題は、それは『お前は男だろう。だから…』においてももちろん出現し、さらには『親なんだから…』『社長なんだから…』『大統領なんだから・・・』などと枚挙に暇がありません。そのうち飼っている犬に向かって『お前さあ、犬なんだから…』と言い出し、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)においては『自分は勇者なんだから…』と自らを鼓舞してしまいそうです。

注(4)
gender : 社会的・文化的役割としての性区分のことです。


 現実と虚構(非現実)の世界の区別がつかない人間がしばしば問題視されます。しかし、誰しも演じることを期待されているという意味においては、現実もその補集合たる虚構に支えられて成立している側面があります。今さら言うまでもないでしょうが、演じている自分を意識できることこそが現実を直視するには不可欠なのだと思います。














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