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     2月                            vol.8




  命題について







 命題(proposition)とは、『真偽の判定ができる文』とされています。いわゆる排中律(law of the excluded middle)を基盤とする論理を古典論理(classical logic)と呼びますが、命題論理と称されるときの命題は一般に、判定・判断以前に真か偽の何れかに定まっているという意味において、まさに古典論理の枠を超えるものではありません。そして、我々がこれから語ろうとしている「数学」は、取り敢えずこの古典論理に立脚して構築されるものなのです。

 ところで、排中律とは、文字通り中間を排除する法則のことです。ある文‘A’が正しい=「真」であるならば、その文を否定した‘〜A’(=Aでない)は間違い=「偽」となり、逆に‘A’が「偽」であるならば、その文を否定した‘〜A’は「真」となるという法則(L:tertium non datur )を意味します。定式化すれば、

       A∩〜A=φ (φは空集合を示す)

となります。同じ意味において

       A∪〜A=Ω (Ωは全体集合を示す)

と表記することもできます。

 排中律の支配する世界では、「ヘレンはトムのことが嫌いではない」という文が正しければ、ヘレンはトムのことが確実に好きなのです。日常の会話においてしばしば「ヘレンはトムのことが嫌いではない」という文は、「ヘレンはトムのことをそんなには好きではない」という意味で用いられたりもしますが、そのような曖昧な解釈が入り込む余地は古典論理や数学においてはないのです。

 まして、「ヘレンはトムが好きでもあり、かつ嫌いでもある」といった心理学上は両価性(ambivalence)と呼ばれる概念は、古典論理においては排中律によって厳しく排除されます。今扱おうとしている数学と他の学問との間に垣根が存在するとしたら、まさしくこの部分にはあるといってよいでしょう。例えば、数学にもっとも近い分野の一つと考えられている物理においてでさえ、排中律を満たさないものが存在します。例えば『光』がそうで、「光は波であってかつ波でなく、粒子であって粒子ではない」ものと定義されるからです。

 哲学的には二律背反(antimony)と称される「Aと非Aが同時に存在すること」は禅問答のようでもありますが、白黒の決着などはっきりつけようもない選択の連続で日々過ごしている我々には、現実の紛うことなき姿でしょう。となれば、数学における論理はある理想形として捉えてもらえれば十分です。真か偽しかなく、またその両者が同時に存在することもない2値論理(two-valued logic)だからこそ、背理法に代表されるような間接証明法(非Aが偽であることが示せればAは真といってよい)を用いることができるのです。間接証明法を学んだ後に、何か騙された感じがしたという人が多いのですが、イエスノークイズなのだと割りきって頂ければいいと思います。

 では、このような二者択一の真理値で構成される世界は薄っぺらで現実離れしたものになるのでしょうか。私はそのように考えません。先に「白黒の決着などはっきりつけようもない選択の連続で…」と述べましたが、確かに心理としては迷いながらも、結果的には白黒の決着をつけながら毎日を過ごしていることこそ現実なのだと気付かされます。

 「映画に行くのか行かないのか」、「食事をある店でするのかしないのか」、「新しいCDを買うのか買わないのか」…etc.ごく普通の休日を考えてみても様々な二択が求められます。あなたは「天気がよかったので、映画には行かず遊園地に行った。その後予定した店で食事をしたが、思いのほか勘定が高かったのでお気に入りのCDは買えずに帰ってきた」のかもしれません。或いは「映画には行ったのだが、何だか疲れてしまい食事もせずに帰ってきた。ところが、欲しかったCDを姉がプレゼントしてくれたので買わずに済んだ」のかもしれません。「映画に行きかつ行かない」とか「店に行ってかつ同時に行っていない」などといった行動は現実には取りにくいと言うか、取れないのです。数学などおよそ縁がないとされるケースにおいても『排中律』を無視できないのが実状です。





 実は近年、数学の世界において『排中律』を認めない直観主義論理(intuitionistic logic)に立脚する数学や、真や偽以外の真理値を認める多値論理(many-valued logic)に基盤を求めるものも考えられています。可能性(possibility)や必然性(necessity)を表現しようとする様相命題(modal proposition)の研究に端を発するものなのですが、皮肉にもその研究が進むにつれ2値論理の重要性が再認識される結果となっています。

 そもそも『命題』と訳された‘proposition’は提案するという意味をもつ‘propose’の名詞形なのですが、プロポーズはそのまま日本語としても使われています。‘propose’の語源は中世フランス語の‘pro’(前に)+‘poser’(置く)です。「我が身を前に差し出す」ということから、日本語にもなっている「求婚する」という意味も生まれてくるのです。さて、プロポーズされたら、返事はイエスかノーかの何れかになります。とくにお見合いなどの場合は厳しいルールがあって、3回目の引き合わせ後には二者択一の回答をするのが常識です(その昔にヒットしたドラマのように101回もプロポーズしたら、今ならストーカーとして手配されてしまうのが落ちで、『僕は死にましぇーん』ではなく『僕は捕まりましぇーん』と頑張りぬくしかないのです)。

 さて、このように真か偽か、イエスかノーかという2つの真理値しか認めない立場を取ると、結論に至る過程が明晰化されます。つまり、ある決定(decision)がなされたときに、どのように意志決定されたのかを追跡するのが容易になりますし、その決定に参画するメンバー全員に対し責任の所在を明確にします。住民投票(plebiscite)にかけて賛否を問う条例案のことも‘proposition’とアメリカやカナダなどでは称するようですが、これなども二択の事案であることを明確化して実施されるべきものという哲学があるからでしょう。

 ところがわが国では、住民投票において賛成・反対だけを問うのではなく、『賛成』『部分的賛成』『部分的反対』『反対』などといった2値論理を否定する形式を意図的に採用したりします。大体『部分』とは一体何を指すのでしょう。旗幟鮮明にしないことがこの国で生き抜く知恵だったからでしょうか。鎖国してやっていけるのだったらそれも結構ですが、このボーダレス社会において、フニャフニャやっていくことがどれだけ国民の利益を損ねているのか一度考えてみる必要がありそうです。

 先進民主国のほとんどが二大政党制を採用するのは、それを制度として採用したから…ではもちろんなくて、二極対立という構造こそが為政者に施策責任を伴わせるほとんど唯一の枠組みであることを血を流しつつ、歴史の中で学んできたからです。反カルテル、反独占に演出過多になりつつも固執するのも、対極の不在を怖れるからです。全体主義の嫌悪と小党乱立への侮蔑は、2値論理というキーワードから眺めるとき同じ地平に位置するものとして見えてきます。

 ここまでの主張は『二元論(dualism)』なのではないかと言われれば、「そうだ」と答えざるを得ないのですが、始めから対立する2つの概念が存在すると考えるのではなく、本来一つであったものを排中する二者に分析し、それらが再び総合される過程で様々な形相や質料が生じることが重要なのだと私は思うのです。その意味においても『一元論』とももちろん一線を画します。むしろ有機的方略というか、有性的戦略と言えるでしょう(ちなみに‘proposition’には異性間における性的な誘いかけという意味もあります)。

 その方略は無機的・無性的なものにも有効です。いやむしろ、より有効と言った方が正確かもしれません。例えば、機械はファジイーな(曖昧な)判断が苦手です。基本的にはONかOFFかしか認識できません。コンピュータで用いられる記数法が2進法であるのは決して偶然ではないのです。しかし、そんな単純さから産み出されてきたものの豊穣を想うとき、2値論理が構築する世界もまんざらではないと思うのです。

 この国における学校教育では、ディベートの訓練はほとんど無視されていますが、「○○にどの程度賛成か」といった心情を教室で吐露しあうよりも、賛否に関係なくどちらかの立場に立たせて、相手を論破する演習を重ねる方がはるかに意義ある学びなのだ…と、もうそろそろ気づいてもいい頃でしょう。

 真偽の2値しかないからつまらないのではなくて、2つしかないから豊かなのだと考えるとき、古典論理に基盤をもつ『数学』は輝きを増すのです。










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