ynishioka.net

>>top  profile / F.o.R. / strategist / books / essay

              → 'monograph' 一覧へ



     3月                            vol.9




  対 応







 「太郎」にしても、「ヘレン」でも「トム」でも、或いは「机」だろうが「車」であろうが、およそ名前を付けることは、その名付けたいと考えるもの=対象(object)を、他のすべてのものから弁別したいという欲求が根底にあります。

 少年犯罪で常に問題となる匿名性の是非は「罪を憎んで人を憎まず」という理念からすれば、当然のことながら、少年Aと言った個人が特定されにくい表現へと方向付けられる筈ですが、時として許し難く重大な犯罪だからという理由で実名報道されることがあります。しかし、この重大であるという判断は何を基準にしているのかが明確化されておらず、得てして雑誌の販売部数を上げるためだけのセンセーショナルな仕掛けに堕しています。

 特定の年齢で大人と子供の線引きなどできないことは、昨今の成人式風景などを見ても分かるとおりです。十五歳のおとなもいれば、二十歳のガキもいるのです。ただ、平等などもとより存在しないのですから、その演出の都合上、○○歳になれば成人と決めざるを得ないのです。そして、その年齢を越えれば即、実名報道もやむ無しと判断されるのです。

 ところが、二十歳どころか、その二倍三倍の加齢を経ているにもかかわらず、社会的に大きな罪を犯しても、名前を公表されないばかりか、呵責の念にすら囚われないで済んでいる幸運な人たちも一方で存在します。

 住専問題なんて、もう多くの人は忘れてしまっているかも知れませんが、血税があれだけ使われたのに、誰が最終責任者かも不明のままです。とりあえず責任の一端があるとされた者たちは挙げられましたが、彼らにどれだけ軽いペナルティーが科せられたのかを思い出してみるべきでしょう。そう言えば、非加熱製剤問題もそうでしたし、不良債権処理への税金投入も、当事国に感謝もされぬ戦争拠出金の出し方、そして、近未来に必ず起こるであろう年金破綻…等々、枚挙に暇がありません。

 人間のやることですから、失敗もあります。失敗を責めているのではないのです。問題は失敗することを前提としてシステムを構築してこなかったことにあるのです。最近になってやっと、税金を投入された場合の経営者責任を明確化しようという動きが出てきましたが、遅きに失したどころか、いまだ猛烈な抵抗にあっているのはご承知でしょう。

 まあ、今もって「民をして由らしむべし、知らしむべからず」という為政上の手法が健在なのは、洋の東西を問いませんが、国民の関心がこれだけ希薄な国も珍しいです。「国民皆に責任がある」のは確かですが、以前にも述べたように、結果の直近で差配した者が必ず責任を取ることこそ、平等を演出する上で不可欠なのです。それが嫌なら、法律外の政令まで作って許認可権を持とうなどと呆けた真似はしないことです。

 結果が生じるのは、必ずその原因が存在したからであるとする因果律から考えれば、許可を与えた時点での結果責任は忌避できないと思われます。なのに、巧みにその責を逃れられているとすると、やはり為政側の対応の仕方にカラクリが…ありそうです。




 さて「対応」という用語は、日常使い慣れた言葉です。「窓口の対応がよかった」とか、「迅速に対応しよう」といった表現は耳に馴染んだものです。この場合、「対応」とは依頼する側とそれを受ける側の二者の関係を示唆するもので、数学における「対応」も同様に、二者関係を定量化することを主眼とします。

 「対応」を図象化したものとして「射線」を利用することがあります。次のようなものです。



    



斜線は図の矢印のことを指します。
「対応」にも色々なものが存在します。先述したカラクリを、 この斜線を用いて次回より説明したいと思います。










top  next


Copyright © 2003 ynishioka. All Rights Reserved.